LOGIN「奥様、旦那様が、また発作を――!」
扉の外から飛び込んできた声を聞いた瞬間、セレナの身体は考えるより先に動いていた。
荷造りをしていた手を離し、寝室を出ようとする。黒月病の発作は、軽いものなら胸の圧迫感と発熱で済むが、重くなると呼吸が乱れ、狼の力が本人の意思を離れて暴走する。これまでにもダミアンが家具を壊したことは何度かあり、最悪の場合には周囲の人間まで傷つけかねなかった。
「薬は?」
廊下へ出ながら尋ねると、若い使用人は顔を青ざめさせた。
「医務室から持ってきています。でも、旦那様が吐いてしまわれて、全然効かないと……お医者様もまだ到着していません」
「発作はいつから?」
「十分ほど前です。朝食の途中で急に胸を押さえられて、そのあと立てなくなって……ヴィオラ様がそばにいらっしゃいます」
そこでセレナの足が止まった。
昨夜までなら、最後の一言など気にもしなかっただろう。
誰がいるかなど関係なく、ダミアンが苦しんでいると聞けば駆けつけていた。水を用意し、薬草を煎じ、熱を測り、暴れそうになれば手を握って名前を呼び続ける。それが妻として当然のことだと思っていた。
「奥様?」
使用人が戸惑ったように振り返る。
セレナは自分の足元を見た。
薄い室内履きの爪先が、廊下の絨毯の模様の上で止まっている。
昨日、離婚を言い渡された。
今朝からは荷物をまとめている。
それなのにダミアンが倒れたと聞いただけで、自分は何の疑問も持たず、また看病へ向かおうとしている。
まるで三年間染みついた役目から、まだ抜け出せていない。
「……奥様」
今度はマーサが後ろから呼んだ。
責めるでも止めるでもない声音だった。
だからこそ、セレナは自分で決めなければならなかった。
「行くわ」
マーサが何か言いかける。
「ただし、医師が来るまでよ。できることだけ確認したら戻ります」
「かしこまりました」
それ以上、マーサは口を挟まなかった。
ダミアンの寝室がある東棟へ近づくにつれ、館の空気が落ち着きを失っていく。
使用人たちが湯や布を抱えて行き交い、扉の前では執事長が何人かに指示を飛ばしていた。セレナを見つけると、彼は露骨に安堵した顔を見せた。
「奥様、よかった。旦那様がかなり苦しまれております」
「医師は?」
「町から向かっております。雨の影響で街道がぬかるんでおり、少し時間がかかるようです」
「発作止めは何包使いました?」
「一包です。追加しようとしたのですが、旦那様が吐き気を訴えられて」
「二包目を無理に飲ませないで。胃を傷めます。冷たい水も駄目です。ぬるま湯を少しずつ用意して」
「承知しました」
口から出る指示があまりにも自然で、自分でも嫌になる。
セレナは扉を開けた。
最初に鼻へ入ってきたのは、薬草の苦い匂いだった。
窓は閉じられているのに部屋の空気はひどく冷たく感じられ、寝台脇の小卓には飲みかけの薬湯と水差しが並んでいる。床には割れた杯の欠片まで落ちていた。
ダミアンは寝台へ半身を起こし、胸元を強く掴んでいた。
顔色が悪い。
額には汗が浮かび、金褐色の瞳には普段にはない獣じみた光が宿っている。指先からは狼化の兆候なのか爪が僅かに伸び、シーツへ食い込んでいた。
その隣にはヴィオラがいた。
「ダミアン様、大丈夫です。私がそばにいますから」
彼女は寝台へ腰掛け、懸命にダミアンの手を握ろうとしている。
しかし彼はその手を振り払うようにして胸を押さえ直した。
「触るな……今は、力の加減が……」
「でも、番ならそばにいたほうが落ち着くのでしょう? 私にできることがあるなら――」
「ヴィオラ」
セレナが呼ぶと、彼女が振り向いた。
一瞬だけ、安心したような顔をした。
「セレナ様。よかった、来てくださったのですね。私、どうすればいいか分からなくて……ダミアン様がこんなに苦しまれるなんて聞いていませんでした」
悪意のある言い方ではなかった。
むしろ本当に困っているようだった。
そのことが、かえってセレナの胸へ妙な重さを落とした。
ヴィオラは知らないのだ。
夜中に突然発作が始まることも、呼吸が乱れたときはどの姿勢が楽なのかも、薬の濃さを間違えると吐き気が強くなることも、熱が上がる前に手足が冷たくなることも。
三年間、セレナだけが覚えてきた。
「少し離れてください」
「でも――」
「狼化が進むと、本人の意思とは関係なく腕を振るうことがあります。今は近くにいないほうが安全です」
ヴィオラの顔色が変わった。
「人を襲うということですか?」
「意識があるうちは大丈夫です。でも、絶対ではありません」
言いながら、セレナは寝台へ近づいた。
ダミアンの瞳がこちらを捉える。
「……セレナ」
苦しげな声だった。
その呼び方も知っている。
発作のときだけだった。
普段は妻がそばにいても気にも留めない男が、痛みと熱に耐えきれなくなると名前を呼ぶ。
以前のセレナは、それだけで救われていた。
自分が必要なのだと思えたから。
「胸だけ?」
感情を脇へ置いて尋ねる。
「背中にも……焼けるような痛みがある」
「息は?」
「浅い。吸うと痛む」
「昨日の夜から違和感はありました?」
ダミアンが答えず、ほんの少し顔を背けた。
セレナには分かった。
「指輪を外した直後からですね」
ヴィオラが二人を見る。
「指輪?」
「何でもない」
ダミアンが苛立ったように遮った。
今それを議論するつもりはなかった。
セレナは水差しへ手を伸ばす。
「これは冷たすぎます。誰か、ぬるま湯を」
すぐに使用人が動く。
次に薬の包みを確認した。
「薬草の配合が違う」
思わず声が漏れた。
執事長が驚く。
「いつもの発作止めですが」
「これは古い処方よ。昨年から月桂草を半分にして、代わりに銀葉を増やしています。月桂草が強すぎると、今の旦那様は胃が受けつけません」
「薬師からは、そのような報告は……」
「私が毎回調整していたからでしょう」
言ってから、部屋がわずかに静かになった。
セレナ自身もそこで初めて気づいた。
医務室に正式な処方として残していなかったのだ。
最初は医師から教わった通りだった。それでは効きが悪く、何度か薬師と相談して少しずつ配合を変えた。発作が起こるたび体調を記録し、眠れていない日は量を減らし、遠征帰りで消耗している日は別の薬草を加える。
いつしか、それをセレナがするのが当たり前になっていた。
ダミアンも。
使用人も。
そしてセレナ自身も。
「奥様、それでは今からお薬を……」
執事長の言葉に、セレナは薬包を見つめた。
作れる。
調薬室へ行けば材料も分量も分かる。
これまで何十回とやってきた。
手が勝手に動くほど覚えている。
そのときダミアンが苦しそうに息を吐いた。
「セレナ……早くしてくれ」
あまりに自然な頼み方だった。
ありがとう、でもない。
すまない、でもない。
これまでと同じように、彼女がやって当然という声。
胸の奥に残っていた何かが、ひどく静かに冷えた。
「お医者様を待ってください」
ダミアンが顔を上げた。
「何?」
「古い処方でも、量を減らせば危険はありません。医師が来るまでは安静にして、熱が上がりすぎないよう様子を見ればいいでしょう」
「お前なら作れるだろう」
「作れます」
「なら、なぜ――」
「私はもう、あなたの妻ではなくなるからです」
ヴィオラが息を呑んだ。
執事長も動きを止める。
ダミアンの表情が険しくなった。
「離婚はまだ成立していない」
「そうですね」
「だったら今くらい――」
「今くらい、何ですか?」
セレナは声を荒らげなかった。
怒鳴れば楽だったかもしれない。
けれど、怒鳴るほどの勢いはもう残っていなかった。
「昨日、あなたは私に離婚を求めました。私は受け入れました。その数時間後には、ヴィオラ様に私の寝室を譲れとも言いました。それなのに、自分が苦しくなったら、今までと同じように私が世話をして当然なのですか?」
「命に関わる話だ」
「医師を呼んでいます。薬もあります。あなたを見殺しにすると言っているわけではありません」
「だったら作ればいいだろう。お前が一番分かっている」
その言葉に、セレナはわずかに笑った。
「ええ。私が一番分かっています」
だから悲しかった。
三年間、夫の病気を誰より知るようになった。
その人がどんな食べ物を好み、どの薬を嫌がり、発作のあと何時間眠れば回復するのかまで知っている。
けれどダミアンは、自分の妻が何色を好むのかすら知らないだろう。
「あなたは、私が何を好きか知っていますか?」
突然の問いに、ダミアンが眉をひそめた。
「今、その話をする必要があるのか」
「ありません。だから忘れてください」
「セレナ」
「私はあなたの病気を知っています。薬も、食事も、眠れない夜の過ごし方も。でも、それは妻として三年間あなたを見てきたから覚えたことであって、あなたが永遠に受け取れる権利ではありません」
ダミアンの唇が引き結ばれる。
ヴィオラが堪えきれないように口を挟んだ。
「でも、セレナ様……今はダミアン様がこんなに苦しんでいるんです。離婚のお話とは別に考えることはできませんか? あなたしか作れない薬なら、今だけでもお願いできませんか」
その言葉には、焦りも心配もあった。
同時に、わずかな非難も混じっていた。
セレナは彼女を見る。
「ヴィオラ様は、ダミアンを愛していらっしゃるのですよね」
「もちろんです。私たちは番ですもの」
「でしたら、これから覚えてください」
「え?」
「どの薬が合うのか。発作が起きたとき何をすればいいのか。何を食べさせれば吐かないのか。どうすれば眠れるのか。私は最初から知っていたわけではありません。三年間、失敗しながら覚えました」
ヴィオラは何も言えなかった。
「あなたがこれから彼の妻になるのでしょう」
「それは……」
「責めているのではありません。ただ、私がいなくなったあとも発作は起きます。そのたびに私を呼ぶわけにはいかないでしょう?」
あまりにも当然のことだった。
なのに、その場にいる全員が初めてその可能性を考えたような顔をしていた。
その事実が、セレナには少しだけ恐ろしかった。
誰も、自分が本当にいなくなるとは考えていなかったのかもしれない。
離婚しても。
館を出ても。
困ったときには呼べば来る。
どこかでそう思われていたのではないか。
「医師が来るまでの対処だけ伝えます」
セレナは執事長へ向き直った。
「部屋を少し暖かくしてください。ただし厚い毛布を何枚も掛けないこと。熱が籠もります。ぬるま湯を少しずつ。薬は半包だけ。吐き気が治まってから残りを飲ませてください。それから狼化が進んでも、押さえつけないで。痛みで余計に興奮します」
執事長は必死に頷いた。
「書き留めておきます」
「これからは医師と薬師にも、正式な処方を作ってもらってください。私の手帳にも記録がありますから、必要なら写しを渡します」
「ありがとうございます、奥様」
セレナは寝台を見る。
ダミアンは不機嫌そうな顔をしていた。
痛みのせいだけではないことくらい分かる。
「帰るのか」
「ええ」
「俺がこの状態なのに?」
その一言に、セレナの足が止まった。
三年前なら胸が痛んだだろう。
一年前でも、きっと戻った。
昨夜までの自分なら、離婚すると決めたあとでも看病したかもしれない。
けれど今は違った。
「ヴィオラ様がいらっしゃいます」
ダミアンの目が僅かに揺れる。
「彼女は何も知らない」
「だから、今から知っていけばいいんです」
「そんな簡単な話じゃない」
「私だって最初は何も知りませんでした」
セレナは穏やかに言った。
「あなたは覚えていないでしょうけれど、結婚して最初の発作のとき、私は怖くて一晩中泣きそうだったんですよ。あなたに『役に立たないなら出ていけ』と言われて、それが悔しくて医師に頭を下げて教えてもらいました」
ダミアンが僅かに目を見開いた。
「俺が、そんなことを?」
「覚えていないでしょうね」
発作で苦しんでいたから。
そう言い聞かせて、当時は気にしないことにした。
その程度の傷が、三年間にいくつあったのだろう。
「もう、私を呼ばないでください」
セレナははっきり告げた。
「医師を呼んでください。薬師を呼んでください。これから妻になるヴィオラ様と一緒に、あなた自身の病気に向き合ってください。私がいなくなって困ることがあるなら、今のうちに一つずつ引き継ぎます。でも、離婚したあとまで私があなたの妻の仕事を続けることはありません」
「妻の仕事……」
「そうでしょう?」
セレナは一度だけ、苦く笑った。
「あなたがそう思っていたから、三年間一度もお礼を言わなかったんでしょうから」
返事はなかった。
今度こそ、セレナは部屋を出た。
扉を閉める直前、ヴィオラがダミアンへ駆け寄り、どうすればいいのかと執事長へ尋ねる声が聞こえた。
胸は痛んだ。
すっきりしたわけでもない。
苦しむ人を置いてきた罪悪感もある。
あれでよかったのかという迷いもある。
それでも廊下を数歩進んだところで、セレナは一度も引き返さなかった自分に気づいた。
マーサが隣へ並ぶ。
「お戻りになりますか」
「荷造りの途中だったでしょう」
「はい」
「続けましょう」
二人が東棟を離れようとしたとき、向こうから三人の侍女が足早に歩いてきた。
中央にいた一人が、セレナを見るなり足を止める。
昨日までなら全員揃って丁寧に頭を下げたはずだった。
だが今朝は違った。
一人は軽く会釈しただけ。
もう一人は目を逸らし、何も言わず通り過ぎる。
最後の一人に至っては、腕に抱えた新しい花を見ながら、聞こえるか聞こえないかの声で仲間へ囁いた。
「もうすぐ奥様ではなくなるのでしょう?」
「ちょっと、聞こえるわよ」
「だって本当じゃない」
足音が遠ざかっていく。
マーサが振り返ろうとした。
「お待ちなさい、あなたたち――」
「いいの」
セレナが止める。
「ですが」
「いいのよ。昨日までは私が次期大公夫人だったから頭を下げていただけなのかもしれないわ」
口にしてみると、思っていた以上に苦かった。
離婚が決まって、まだ一晩しか経っていない。
正式な書類もない。
それなのに、この館の空気はもう確実に変わり始めている。
自分から、ヴィオラへ。
女主人の座が移る気配を、使用人たちは誰より敏感に感じ取っているのだろう。
セレナは廊下の先に見える自室の扉を見た。
そこには今朝、ヴィオラのための赤い薔薇が運び込まれたばかりだった。
三年間かけて築いた居場所がなくなるには、一日あれば十分らしい。
けれど不思議なことに、その事実を目の当たりにしても、昨夜ほどは悲しくなかった。
むしろ、はっきりした。
この家を出なければならないのではない。
自分はもう、この家を出たいのだ。
「マーサ」
「はい」
「荷造りを今日中に終わらせましょう」
「お急ぎにならなくても――」
「急ぎたいの」
セレナは自分でも驚くほど迷いなく答えた。
「私、この家を出たあとに何をするか、少し考えてみたくなったから」
その声が廊下へ静かに響いたとき、遠くの寝室では再び誰かが慌ただしく医師の到着を知らせていた。
けれど今度のセレナは、振り返らなかった。
第20話 優しくされると、借りを作った気がする 翌朝、セレナが目を覚ましたとき、最初に感じたのは静けさだった。 地下牢のような、息を潜めなければならない静けさではない。厚いカーテンの向こうから朝の光が柔らかく滲み、廊下では使用人が足音を抑えて行き来している。どこか遠くで食器の触れ合う音も聞こえた。 それでも数秒のあいだ、自分がどこにいるのか分からなかった。 天蓋。 柔らかな寝具。 窓。 鉄格子のない窓。 そこまで確認して、ようやく昨日のことが戻ってくる。 処刑。 停止。 月血。 使節館。 そして、自分で選んだ林檎と焼きたてのパン。「……生きてる」 声に出すと、少し可笑しかった。 昨夜までも生きていたし、今朝も当然のように身体はここにある。 それでも、一晩眠ってから迎えた朝には、昨日とは違う重みがあった。 セレナは寝台から降り、窓を開けた。 冷たい朝の空気が入り込む。 使節館の庭には、黒い制服を着たノクティスの騎士が何人か立っていた。昨日聞いた六人の護衛だろう。 こちらを見張っているようには見えない。 けれど、守られていることは分かる。 守られる。 その言葉に、まだ少し身体が強張る。 守ると言いながら、選択を奪う人間をセレナは知っていた。 善意で人生を決めた大公。 妻を守っているつもりで何も見ていなかったダミアン。 そしてルシアンも、いつか同じになるかもしれない。 そう考える自分を責める気はなかった。 信用とは、命を助
第19話 黒狼王の客人になった元死刑囚 処刑場からノクティス王国の使節館まで、馬車なら十五分ほどだった。 たったそれだけの距離なのに、セレナにはひどく長く感じられた。 窓の外には、いつもと変わらない領都の朝が流れている。パン屋の煙突から白い煙が上がり、荷車を引く商人が通りを横切り、開店準備をする店員が軒先を掃いていた。 ほんの少し前まで、自分はこの朝の続きを見ることすらないはずだった。 道の向こうで母親に手を引かれている子どもを見ただけで、胸の奥が妙に詰まる。店先に並ぶ赤い林檎を見ても、あれを食べられるのだと思ってしまう。 生き延びたからといって、世界が急に美しくなるわけではない。 ただ、昨日まで当たり前だったものに、値段がついたように感じる。「気分が悪いか」 向かいから声をかけられ、セレナは窓から視線を戻した。 同じ馬車にはルシアンが乗っている。 本来なら国王専用の馬車なのだろう。黒革張りの座席は柔らかく、揺れも驚くほど少ない。「いいえ。外を見ていただけです」「顔色が白い」「元からです」「そういう誤魔化し方をするな」 即座に返され、セレナは少し口を尖らせた。「処刑されかけた直後なんですから、多少顔色が悪いくらい仕方ないでしょう」「だから聞いた」「……そうですね」 この男との会話は、ときどき妙に調子が狂う。 心配されると、つい「大丈夫です」と答えたくなる。 するとルシアンは、それを許してくれない。「少し疲れています」 言い直すと、彼は頷いた。「では着いたら休め」「先に事情聴取とか、血統検査とかがあるのでは?」
第18話 私は、誰の所有物にもならない「月の女王となる者です」 老薬師の言葉が、朝の広場に落ちた。 つい先ほどまでセレナの処刑を見届けようと集まっていた人々が、今度はまったく別の意味で息を呑んでいる。 処刑台の床には、まだ銀白色の狼の影が残っていた。 セレナが動けば影も動く。けれど、人間の影とは明らかに違っていた。四本の脚を持つ巨大な狼は、まるでセレナ自身を守るように、その身体を包み込む位置に立っている。「待ってください」 真っ先に声を出したのは、セレナ自身だった。「月の女王って、何ですか。私は昨日まで国家反逆罪で処刑される人間だったんですよ。それが急に女王だなんて言われても、話が飛びすぎています」 もっと驚くべきところがあるだろうに、口から出たのはそんな言葉だった。 老薬師は膝をついたまま、何とも言えない顔をした。「お変わりになりませんな」「以前の私をご存じなのですか」「十七のころ、一度だけ診ております」「それなら、まず立ってください。年上の方に跪かれると落ち着きません」 群衆の中から、ごく小さな笑いが漏れた。 緊張が張り詰めすぎていたせいだろう。 老薬師自身も少しだけ笑い、膝へ手をつきながら立ち上がった。「では、お言葉に甘えましょう」 その瞬間、王家の法務官が我に返った。「待て! まだ執行停止が正式に確定したわけではない!」 広場の空気が再び硬くなる。「審問官が勝手に延期を宣言したにすぎません。王都からの命令は有効です。血統が何であろうと、この女は国家反逆罪で有罪とされた死刑囚だ!」「その有罪判断自体に重大な瑕疵があると言っている」 ギルベルトが前へ出た。「
第17話 処刑台で、黒狼王は剣を抜いた 処刑まで十二時間を切ったと知らされた夜、セレナはほとんど眠れなかった。 眠れないのは当然だと思っていた。 明日の朝、自分の首が刎ねられる。 そう理解しているのに、身体のほうは妙に現実的で、喉が渇けば水を欲しがり、冷えれば毛布を引き寄せ、長く座っていれば腰が痛くなった。 死ぬ予定が決まったからといって、人間の身体は急に特別なものにはならないらしい。「変なの」 寝台の上で膝を抱えながら呟く。 怖い。 間違いなく怖かった。 けれど、数日前まで想像していたほど取り乱してはいない。 泣き疲れたせいかもしれない。 あるいは。 胸の奥に、あの温かさがあるからかもしれなかった。 ルシアンに会ってから、それはずっと消えずに残っている。 大きな狼が、自分の胸の内側で身体を丸め、眠らずにこちらを守っているような感覚。 外からは、遠くの鐘の音が一度だけ聞こえた。 夜半を知らせる鐘だろう。 あと何時間あるのか、計算しようとしてやめた。 数えても、朝が遅くなるわけではない。「ルシアン陛下、どうするつもりなのかしら」 あの男なら何かする。 根拠はない。 けれど、言葉だけではなく行動を見ろと言った人だ。 その彼が「諦めない」と言った。 信じ切るのは怖い。 期待するのも怖い。 それでも、まったく期待していないと言えば嘘になる。 そのとき、胸の奥の狼がわずかに動いた。「あなたまで期待しているの?」 返事はない。「もし
第16話 黒狼王は、私の処刑を止めに来た ルシアン・ヴォルク国王が領都へ入った。 その知らせは、地下牢にいるセレナのところへ届くまで、それほど時間を要しなかった。 誰かが正式に教えてくれたわけではない。 廊下を走る衛兵の数が増え、交代のたびに短い会話が飛び交い、それまで静かだった監察局の地下にまで、地上の緊張が染み込んできたのだ。「黒狼騎士団は西門の外で待機させたらしい」「全員じゃない。王自身と近衛二十名だけが入城した」「二十名でも十分だろ。ノクティスの黒狼近衛だぞ」「王都からの返答は?」「まだだ。だが大公殿下が迎えに出たらしい」「ダミアン様も?」「当然だろう。あの王が何をしに来たと思ってるんだ」 そこで声が小さくなる。「……あの女だよ」 セレナは寝台に腰掛けたまま、扉の向こうへ目を向けていた。 あの女。 自分のことだ。 少し前までは公爵夫人だった。 今は国家反逆罪の死刑囚。 そして、会ったこともない外国王が自ら国境を越えてくる理由になっているらしい。 どう考えてもおかしい。「本当に、何なの……」 胸へ手を当てる。 ルシアンの名前を聞いて以来、内側の熱は消えなかった。 痛くはない。 黒月病の発作を起こしたダミアンのように、身体が内側から裂けそうになるわけでもない。 むしろ反対だった。 熱いのに落ち着く。 ずっと閉じた部屋の中にいたものが、遠くから近づいてくる何かの気配を感じ、扉の前まで歩いてきたような感覚だった。
第15話 処刑まで三日、元夫はようやく私を信じた 死刑を告げられたあと、人は何を考えるものなのだろう。 家族の顔を思い浮かべるのかもしれない。 やり残したことを悔やむのかもしれない。 神へ祈る者もいるだろうし、泣き叫んで無実を訴える者もいるだろう。 セレナが最初に考えたのは、ひどく場違いなことだった。「三日しかないなら、マーサに返すはずだった本、返せないわね」 口にしてから、自分でも妙だと思った。 地下牢へ戻される途中だった。 前を歩いていたエドガーが振り返る。「本、ですか」「ええ。薬草の本を借りていたんです。荷物の二箱目に入れたままで」「……今、考えることがそれですか」「自分でもそう思います」 セレナは小さく笑おうとしたが、口元は思うように動かなかった。 本当は、何を考えればいいのか分からないだけだった。 三日後。 公開処刑。 あまりにも具体的な日数を与えられると、「死ぬ」という出来事がかえって現実から遠ざかる。 明日があって。 明後日があって。 その次の日には、自分はいない。 理解できるのに、理解したくない。「王都への異議申立てはできますか」 セレナが尋ねると、エドガーの歩みが一瞬鈍った。「大公殿下がすでに手続きを始めています」「止められる可能性は?」「……あります、と無責任には言えません」「低いのですね」 答えはなかった。 セレナは、それ以上聞かなかった。 重







